danceintent’s blog

定年後 元気なうちに海外生活

広島県

終戦を遅らせたソ連の秘密工作

■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 2017年 12月 10日 伊勢雅臣 地球史探訪:終戦を遅らせたソ連の秘密工作 ~ 江崎道朗『日本は誰と戦ったのか』から 今こそ「日本は誰と戦っているのか」を問わなければならない。 ■1.ソ連の工作員が終戦を遅らせた 昭和16(194…

大正生れ 母の娘時代 写真帳

1 商店街二人組 大正から昭和に移るころの仲良し二人組 実家は広島市鍜治屋町で旅館を営んでいた 一階の軒先が深い総瓦屋根二階建ての商家が連なっている商店街の店先で 二人が着ているのは自家製綿入れの着物 この頃の子供の普段着だった 2 帽子二人組 本…

 戦後70年と私

B29による日本各地無差別大量殺人 広島と長崎に原子爆弾 当時も今も 戦時国際法は、一般市民の大量虐殺を「してはならない」と明確に規定している 現在も世界各地で戦争を継続している米国政府とは なんと野蛮で好戦的な人間集団なのだろうかとつくづく思う …

東京での後半生

10.吸収合併 アメリカから安い硫黄が輸入されるようになり 国内産硫黄採掘の鉱業会社は次第に経営が立ち行かなくなった。 ついには 大手金属会社に吸収合併されることとなった。 荒助は親会社の社員と付き合う手段として 卓球の替わりに 慣れないテニスを…

広島から上京

7. 広島から東京へ引越し 全国から仕事を求めて人が集まっていた 東京へ 家族 3人 引越した。 硫黄を山形県の鉱山で採掘し 企業へ販売していた 妻博子の兄が社長の会社へ就職した。 広島の横川にバラック工場を建ててから2年後 昭和24年の 春だった。 杉…

昭和 21-23年 広島市内での生活

4.買い出し 荒助は 入隊前に勤務していた日本通運広島支社に35歳で 職場復帰した。 運ぶ物資もトラックもほとんどない状況下で 運輸業らしい仕事はなく 戦災復旧の事務に追われ 月給はスズメの涙程度の500円 ( 自由価格米1升50円 ) これが 当時の就業状…

仏領印度支那からの引き揚げ

1.戦地からの引き揚げ 終戦から10ヶ月経た昭和21年6月、父荒助は仏領印度支那のサイゴン(現ベトナム ホーチミン市)から日本に帰還した。 広島市が原爆で全滅したというニュースは、仏印でも度々報じられていた。 今後100年は草木が生えないとい…