danceintent’s blog

定年後 元気なうちに海外生活

昭和 21-23年 広島市内での生活

4.買い出し
 
 荒助は 入隊前に勤務していた日本通運広島支社に35歳で 職場復帰した。
運ぶ物資もトラックもほとんどない状況下で 運輸業らしい仕事はなく 戦災復旧の事務に追われ 月給はスズメの涙程度の500円 ( 自由価格米1升50円 ) 
 
これが 当時の就業状況だった。
 
 配給米は必要量の3分の1しか配給されず 配給された酒と煙草は 旅館などに売って 闇米(自由価格米)を買っていた。
 
 ある時 博子が横川の駅近くの雑貨屋で 水石鹸 ( 空気に触れていると水分が蒸発してだんだん小さくなるしろもの ) を売っているのを目にし 仕入先を尋ねると四国の方だという。
 
 はっきりとは教えてもらえないまま 四国へ行って尋ね廻れば何とかなるだろうと荒助は休日を利用して 水石鹸を売ってくれる所を見つけに 四国へ出かけていくことになった。
四国のあちこちを尋ね歩いた末 幸い水石鹸を買うことができ 別送してもらい
無事 買い出しの役目を果たして帰ることができた。
 
 博子がそれを市内に売りに行ったところ 瞬く間に売れた。
売れるといっても あくまで店先に置いてくれる 委託販売の承諾を得たということなのだが 置いてくれた店に次に行ってみると 完売している状態だった。
当時 あらゆる物が不足している中で 多くの人がなにかしらを仕入れ それを売っては生計の足しにしていた  「買い出し 」 と呼ばれるサイドビジネスだ。
 
 荒助は土曜日の夜汽車で大阪へ行き 日曜日に洗剤を買いつけ 日曜の夜汽車で大阪を発ち 翌朝そのまま出勤する という生活を続けた。
当時の土日の夜汽車は、買い出しの人たちで超満員 車内通路にさえ腰をおろすことができず 人にもたれて立ったまま眠ることが3度に1度はあった。
 
 疲労が重なると、南方従軍中にマラリアにかかった後遺症で 寒気と震いがきて
発熱することが 引き上げ後 数年も続いた。
元来体が 特に内臓が丈夫だったことと 高校時代サッカー部で毎日体を鍛えたことが 軍隊生活・敗戦後の生活で 幾たびも出会う困難を克服してゆく 大きな支えとなった。
 
5.石鹸製造事業を始める
 
そんな買い出しの生活が何ヶ月も経ったころ 休日を大混雑した汽車にゆられて丸一日半つぶし 「 買い出し 」 するよりも いっそのこと石鹸を作ってみようかと思い付いたことが 夫婦の人生の転機となった。
 
博子の高等女子専門学校家政科の卒論テーマが 「 洗濯石鹸の選び方 」 で
ゼミの教授から参考本として入手した 製造方法が詳しく書かれた専門本が 偶然にも手元に残っていた。
 
本を片手に 見よう見まねで 七輪に鍋をかけ植物性油とカセイソーダを混ぜて作ったところ これがちゃんと 汚れが落ちる石鹸が出来上がった。
本格的に石鹸を作ることにして 工場の場所をどうしようかということになった。
 
原爆で焼け野原となり空き地となっていた 国鉄横川駅前の父吾一所有の運送会社事務所跡地にバラックを建て 事務所兼 石鹸製造工場兼 住居とした。
ここで運転資金として 金の延べ板を換金する必要が出てきた。
金の延べ板を買ってくれる歯医者を見つけ 換金することができた。
 
当初は、ヘッドなどの高価な食用油を原料に作ったが それでは採算が取れないどこかに安い油はないかと探しまわった。
無い無い尽くしの当時 油は貴重品で 値段に係わらず入手困難だった。
 
ある時 安い油がドラム缶で一本あるという。
現物を見に行き 中身を確かめてから 購入した。
いざ工場で開けてみると 蓋の下だけ筒状に油が詰めてあるだけで ドラム缶の中身は水だった。
 
多くの市民が物々交換・直闇取引きをしている混沌とした社会状況下 
市内の日通支店長だった実兄から 日通倉庫の片隅に旧日本軍が放置したままになっている 金属針を煮た後の廃油が ドラム缶で5本あるという。
この廃油を活用しない手はないとばかり 早速トラックで石鹸工場へ運び込んだ。
原料が廃油なので真っ黒な石鹸が出来上がった。
それでも 飛ぶように売れていった程 まだ石鹸は市場に出ていなかった。
 
新しい油を使って白い石鹸が出来た時には 嬉しくてミルク石鹸と名前をつけた。
市内で一番大きい百貨店の 「 福屋 」 にも置いてもらえた。
博子は我が手で造った石鹸が売れるのかどうか気がかりで 売り場の隅で見守っていたが 店先に置くさきから 売れていくのを見て安堵した。
 
このころには 親戚の人を中心に 数人の人が工場事務所で働いていた。
弟は 楽々園の別宅から五右衛門風呂の風呂釜を大八車に載せて一人で運んで来た。
風呂釜で湯の代わりに油を沸かし 油と化成ソーダをかき回す石鹸造りを引き受けた。
京城 ( 現ソウル ) から敗戦で着の身着のまま引上げてきた 博子の姉夫婦には 工場の隣の敷地に家を建て 住み込みで手伝ってもらった。
荒助は日通を退職し 石鹸製造販売事業に専念することとなった。
 
6.税務署の査察
 
 石鹸は 工場での直接販売と店頭委託販売 および地方の行商人に卸販売する三通りの方法で販売した。
販売を始めて1年半ほど経ったある時 行商でトップ売上の人が 「 私が1年で200万円儲けたくらいだから 作って売っているお宅は さぞ儲かっているでしょうな 」 と言う。  当時30万円で家が一軒買えた時の200万円だ。
 
 博子にとっては、買い出しの人々が一日中出入りする喧騒の中 生まれたばかりの長男の世話 食事の支度 代金の入金管理 石鹸の包装 時には石鹸釜のかき混ぜと 一人何役の日々が 休みなく続いた。
 
 100円札がもっとも高額な紙幣だったので 荷造り用の紐を使って夫婦で 売上金を一万円の束にくくって 床下に貯蔵する作業が毎夜続いた。
自由に使える時間があり なおかつ安定収入のあるサラリーマンの主婦生活を博子が夢見たのも そんな目まぐるしく時間が毎日続く中でのことだった。
 
 闇取引が隆盛を極めた当時 新興事業者からの税収入確保を国策として取り組んでいた税務署が 石鹸を造って儲けているという噂を聞いて乗り込んできた。
税務署員の来訪時 博子はとっさに敷いている座布団の下に帳簿類を隠し 身動きもせず 淡々と担当官に応対した。
 
後日 税務署が請求してきた税額は とんでもない額だった。
 
 荒助は担当責任者の自宅へ押しかけて行き 「 この額を払ったのでは商売が成り立たない 」 と徹夜で居座り 減額してくれるというまでガンとして そこを動かなかった。
 
 気迫の嘆願の甲斐があってか はたまた税額算出根拠が帳簿類も調査しない 
いい加減さ故か 減額が聞き入れられることになった。
 
 この税務署との一悶着があった後 いずれ従来の石鹸メーカーも製造販売を始めることだろうし 素人商売もここいらが潮時 と夫婦は決断した。
 
工場をたたんで 両親・親戚・友人のいる 住み慣れた広島を後に 上京した。