danceintent’s blog

定年後 元気なうちに海外生活

広島から上京

7. 広島から東京へ引越し
 
全国から仕事を求めて人が集まっていた 東京へ 家族 3人 引越した。
硫黄を山形県の鉱山で採掘し 企業へ販売していた 妻博子の兄が社長の会社へ就職した。
広島の横川にバラック工場を建ててから2年後 昭和24年の 春だった。
 
杉並にあった 弟夫婦が住んでいた社宅に一時 身を寄せた親子3人 
新宿区代々木に70万円の家を見つけ 買うことにしていた。
 
 買う予定だった家の周辺で 連合国進駐軍が目に付き 妻の身の危険を察した
荒助は急遽 購入を取止める事にした。                           
その一方 身を寄せている弟宅の隣家が買えることを知り 渡りに船で 30万円で購入した。
 
 この家は 戦時中 近くの高射砲陣地に従軍していた兵隊の宿舎として使われていた。 平屋で敷地50坪の現在の実家だ。
当時 家の回り 3方向は畑で 弟宅と買った家の2軒が ポツンと建っていた。
 
8. 硫黄鉱業会社
 
昭和24年 荒助38歳  東京での最初の職場は 硫黄鉱業会社だった。
石鹸製造会社オーナーから 机仕事中心のサラリーマンとなった。
元来 体を動かすのが好きだったので 余暇に当時流行っていた卓球を始めた。
毎年開かれる鉄鋼ビル内卓球大会 シニアクラスで優勝するほど熱中した。
 
 広島ではあれほど元気だった博子はすっかり痩せ 戦時中の苦労と敗戦後の石鹸商売の無理がたたったのか 寝込む日もあった。
 
 このころ 富山の薬売りをはじめとする 各種訪問販売人が家々を訪れた。
ゴムひも 針糸など日用品小物をカバンに詰めて1軒1軒の玄関に上がり込み 
強引な口上で家人に買ってもらう 「 押し売り 」 も横行した。
 
 ある夜 新潟からという毛織物の行商人が近くの家に来た。
当時毛織物に似せた粗悪なスフが出回っていた。
その家の人が 買った直後 現物の小片を持ってきて 「 本物かどうか調べて 」 と言う。
マッチで燃やしてみるとスフであった。慌てて行商人の後を追ったが すでに影も形も無く逃げたあとだった。
 
 電気冷蔵庫はまだ無い時代 毎日リヤカーで売りにくる氷屋から長さ30cm ( 一貫目 ) の氷をその都度ノコで引いてもらい 木製の冷蔵庫の上段に入れて使っていた。
台所の床は 土間で 上にスノコが敷いてあった。
                             
9. 心霊科学協会
 
東京のサラリーマン生活にすっかり慣れたころ 電柱に貼ってあった心霊科学協会の会員募集広告に興味を持った。
 
 父吾一は幼少のおり 視力が極端に落ち 遂に目が見えなくなった。 
岡山県最上稲荷奥之院一乗寺の霊能力がある僧侶に頼み 祈りで息子の眼病を治してもらった。
 
 以後 家の宗派を 禅宗から日蓮宗に改宗し 最上稲荷詣が 家の重要行事となった。
 
 父が度々家に霊能者を呼んで 相談事をしていたのを 子供の頃から身近で見て育った。 
青年時代は 兄弟がそれぞれ最上稲荷 奥の院に泊まり込み 滝で水行をしていた。 
               
 父は息子5人が全員戦地に行っていた戦時中 最上稲荷奥之院で滝に打たれながら息子5人の名を呼び 無事を祈った。
 
 霊能者に息子達の安否を尋ねると 「 5人とも無事であるがうち一人が 命に別状はないが傷を負っている 」 と告げられていた。
 
 戦後 長男は中国戦線 次男荒助は仏印 三男は満州 四男は中国戦線 五男は南方戦線からそれぞれ全員生還した。傷を負っていたのは四男だった。
戦場で足に銃弾を受け歩行に支障がある状態だった。
5人の息子が残らず生きて帰って来たのは当時としては まれなことだった。
 
 生死を分けるような極限状態に直面する戦場の兵士にとっては勿論 身内を兵として取られた銃後の家族にとっても 戦争という非常事態の日々が長く続いた。
非常事態を過ごす内に 目に見えない力の存在を 感じざるを得ない夫婦であった。
昭和29年 荒助43歳 博子38歳 夫婦で心霊科学協会に入会
 
週一回の 会合の折 「 この中に仏壇がにぎやかで窮屈でたまらん家がある 」と会長夫人がいう。
仏壇を初めて買って 今まで神棚に祭ってあった水晶玉やら あれこれを仏壇に収めていた博子は びっくりして手を挙げた。    
 
これ以後 家の仏壇と神棚は 分けられることとなった。
その後 会長夫人の言葉に 度々救われる事が起こる。