1.戦地からの引き揚げ
今後100年は草木が生えないという報道もあった。
先を争って外地から引き揚げても家族はもう死んでいないし、広島での独り身の生活も不自由するだろうと思っていた。
だれもが一刻も早く帰りたいと望んでいる中で、引き揚げ船に乗る自分の順番を人に廻してあげていたので、戦争が終わってから10ヶ月も過ぎてから、最後の引き揚げ船での帰還となった。
衛生兵として現地の病人に薬を使用して治療してあげたことを感謝され、もらった金の延板を、引き揚げてくるときに靴底に隠して足取りも重く帰って来た。
貴金属・宝石・有価証券・預金通帳は下船時の検査で見つかれば、「預かり」という名の没収が、連合国司令部GHQの命令で徹底されていた。
この金の延板は、後の石鹸製造事業の資金となった。
瀬戸内のどの港に入港したかは定かではない、港で退役一時金70円を受け取り鉄道を使って広島駅に着き、市内のあまりの変わり様を目のあたりにした。
覚悟はしていたが、この様子では実家のあった油屋町に足を運んでも、瓦礫の山だろうからと、別宅のあった楽々園へ向かった。
5年間南方従軍した体と、先行きの事は何も考えられない精神状態のなか、別宅の玄関を入ると、妻博子が奥から出て来て感動の対面をした。
死んだと思っていた妻が生きていた。両親も生きている。
妻を幸せにすることを第一に家庭を築いて生きてゆきたい、戦地でずっと望んでいたことが実践出来る幸せに包まれ、天にも登る気持ちだった。
元気な様子で突然帰ってきた荒助を迎えた家族は、驚き、喜び、そして感謝した。
2.疎 開
吾一は地区の町内会長として防火責任を負っていたため、爆撃のない場所へ疎開しようにもできない立場に置かれていた。
博子の姉千代子が荒助の兄泰助に嫁いだのが縁で、荒助から求婚されて結婚話が持ちあがった時、吾一の姉ツル・弟の実雄姉弟からは、長男次男の嫁が同じ家の姉妹では、運送店経営をはじめとする家業への自分達姉弟の立場が弱くなることを予想して反対された。
しかし、荒助の強い意志と母チトの助けで二人は結ばれた。
そうした一悶着を経て家の嫁に入った博子とて、両親を置いて一人疎開するわけにもいかずにいた。
空襲の被害が連日あちこちで起こっている緊迫した状況のおりの、昭和20年7月、ツルが霊能者の友人と岡山の最上稲荷のお参りから帰って言うには、最上稲荷にお参りした日に、眼下の岡山市が空襲を受け、燃え盛る市街地を眺めながら、霊能者が「あれをよく見ておくがいい。今に広島が、あれどころではないもっとひどい、火の海となるぞ」と叫ぶように告げたという。
弟一家の身を案じた姉の、ただ事でない様子の話し振りを聞き、ツルや霊能者の言うことに日頃からよく従っていた吾一は、すぐさま妻と嫁の3人で荷物をまとめて、別宅のある広島市郊外の楽々園に疎開した。原爆投下 1週間前 の出来事だった。
3.原爆被爆
昭和20年8月6日朝の原爆投下時、博子は楽々園の兄泰助宅の二階で熟睡中だった。
その朝、寝ている瞼に真っ白な光がピカッ-と射し込み、驚きと恐怖で飛び起きた博子は、階下からの千代子の呼び声に応じて、二階から階段を転がるようにしてかけ降りて、庭先に造ってある自家用防空壕に飛び込んだ。
市内方面からは、体中にやけどを負った人の群れが続々と逃げてきた。口々に水を求めていた。近所の人々といっしょに水や火傷の介抱をしながら、道端にうずくまって「水、水を」と呟きながら事切れていった人を何人も目にした。
千代子は戦後50年経っても広島記念資料館には足を踏み入れなかった。「あの時のことを思い出すので入れない」ほどのそれは地獄絵のような光景だった。
吾一は、実家の留守を託した内妻を葬るため、楽々園から市内に連日通って探したが、瓦礫の山ばかりで見つけられない。
そのうちに、残留放射能の影響で頭の毛が抜け出すようになり、ついに市内に行くことを諦めた。
博子は原爆投下3日目に市内を通って牛田まで妹貞子を見舞いに行った。
貞子は、市内白島の自宅庭先で洗濯物を干している最中に被爆し、背中・両手に大やけどを負い、背中一面焼けただれの重傷で寝床に臥せっていた。
貞子の夫で軍医の透氏は、職場である市内の陸軍病院で被爆し、両親と長男孝文が疎開している牛田の疎開先にたどり着いたが、建物内で被爆したので火傷こそしていなかったが多量の放射能を浴びていたため、数日して息をひきとった。
その疎開先に、やけどの薬が多量に備蓄してあったことと、化膿した背中の膿がついた着物を1日何度も替えて洗うような、夫の両親からの火傷治療の手厚い看病を受け続けたことで、貞子はお腹にいる次男宏文と共に奇跡的に命を取りとめた。