アメリカから安い硫黄が輸入されるようになり 国内産硫黄採掘の鉱業会社は次第に経営が立ち行かなくなった。
ついには 大手金属会社に吸収合併されることとなった。
荒助は親会社の社員と付き合う手段として 卓球の替わりに 慣れないテニスを始めた。
吸収合併時の激務と 休日の付き合いテニスをこなすために 栄養をつけようと牛肉を盛んに食べた。
体の疲労と内臓に負担がかかっていた昭和31年7月の夜 腹部の激痛で目が覚めた。
家族が急病で動けない時には 往診してくれた 近所の医院に夜中に入院した。
その夜は痛み止めの注射を打ってもらったが 翌朝になっても一向に痛みは治まらない。
悪い予感がした博子は 医院を出て公衆電話から 心霊教会会長夫人に事情を話すと 「 そこにいてはいけない すぐに大きな病院に移すように 」 と言われた。
しばらく様子を観ましょう という医師の言葉に ガンとして応じない博子の真剣さに それほど言うのならと 知り合いの大学病院を紹介してくれた。
その場からタクシーで 飯田橋の日大病院に乗りつけた。
その日勤務していた医師が 診るなり 即日手術となった。
数日前 同じ様態の急性膵臓壊死の患者を 自らの手で 手術したばかりの時であった。
急性膵臓壊死 は急を要する手術が必要 かつ非常に珍しい病気であった。
この医師に 「 1日遅れていたら助からなかったでしょう 」 と後で言われる。
11.ポンプ製作所
昭和36年 荒助50歳 消滅した硫黄鉱業会社に替わり ポンプ製作所社長としての職を得た。
十数針を縫う大手術から生還して 5年後のことだった。
その間あれこれ仕事はこなしたが どれも続かなかった。
ポンプ製作所は 油を輸送するための特殊ポンプを制作している 社員10数名の町工場だった。心霊協会の役員をしていた大学教授が 自身で発明した技術で 特殊ポンプを制作する会社を起こしていた。
大学教授の内職的な経営では立ち行かなくなり 銀行から経営資金を都合する意味からも 自分に代わる経営者として心霊協会員の荒助に 白羽の矢が立った。
新しい仕事を得て 朝早くから毎晩遅くまで全社員と一丸となってポンプ制作に精を出した。
そんな がむしゃらな日々が1年ほど過ぎた頃
経営資金を銀行から借りることとなり 社長である荒助の自宅を抵当にせざるを得ない事態に陥った。
作っただけ確実に売れるし やりがいのある仕事ではあったが
失敗すれば無一文どころか莫大な借金がかぶさってくる。
心霊協会会長夫人に相談すると 「 やめときなさい 」 の断言だった。
社長としての立場上 抜き差しなら無い状態になっていた。
社長業の先輩である博子の兄に現状打破を頼みに行った。
義兄から会社オーナーの大学教授に話をつけてもらい 融資の話を白紙に戻してもらった。
結果として また職を失った。
妻の慢性胃下垂を診てもらおうと千葉医大に夫婦で尋ねた折 ついでに膵臓の手術後あまり物を食べられなくなっていた自分も診てもらったところ 手術で処置した管と胃がくっついている 「 悪いのは奥さんではなくて あなたの方だ 」 ということで 入院して切り離してもらった。
12.建設会社営業
元来 体が丈夫だったとはいえ 帰宅後や休日の自分の時間に ぼーっと何もしないで過ごすのが まるで罪悪かのように 読書 書き物 と常に頭と体を動かし続けた おとうさん
92歳 永眠
皆 実 が 原 讃 歌
( 1992年 広島高等学校関東同窓会場にて献詩朗唱 荒助作詞 )
一. 若き理想を 語りつつ 友と歩みし 遠き日よ
偲べば今宵 冴え渡る 皆実が原に 秋深し
二. 白き 顔 ( かんばせ ) 春の夜の 灯 ( ほ ) 影に映し 逍遥 ( さまよえ ) えば
岸辺は淡き 桜花 三條の流れ 水蒼し
三. 瀬戸の内海 船出でし 航路 ( みち ) それぞれに 異なれど
過ぎにし暦 たどりゆき 今宵の 宴 ( うたげ ) 楽しまん