danceintent’s blog

定年後 元気なうちに海外生活

 ☆蔡焜燦~元日本人の歩んだ道☆

45年前 初めて行った外国旅行先が台湾だった
台湾東北部の蘇襖という小さな町の病院の院長宅に高校時代の友人と2泊した
台湾人の院長は戦前日本の教育をうけ東京に留学に行った 「元日本人」 だった
当時の日本人の一人として 米軍が上陸してきたら 戦って死ぬ覚悟はできていた
と 熱く話す
戦前の台湾の人の話は ブレがない
 
小名木 善行 氏 のブログ 「ねずさんの ひとりごと」 から
2015年2月22日の記事 「蔡焜燦~元日本人の歩んだ道」 を 転載します
 
 
 
 
伊勢雅臣さんの国際派日本人養成講座は、たいへん格調高く内容の濃い講座として知られていて、私も大好きで、伊勢先生は、尊敬する先生のひとりです。
その中に、次のような言葉があります。

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日本はあなた方現代日本人だけのものではない。
我々元日本人のものでもある。
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この言葉は、司馬遼太郎が「街道を行く」の「台湾紀行」を書いたときに、台湾でガイドをしてくれた蔡焜燦(さいこんさん)氏の言葉です。
蔡焜燦氏は、台湾人の実業家で、半導体デザイン会社を経営するかたわら、司馬遼太郎の著書に案内役の「老台北(ラオタイペイ)」の愛称で登場しています。

以下、伊勢雅臣さんの本文をまるごとご紹介してみます。

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■■蔡焜燦~元日本人の歩んだ道■■

「日本」はあなた方現代日本人だけのものではない。
我々「元日本人」のものでもある。

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1.歴史を共有した同じ国民
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司馬遼太郎は「小生は七十になって、自分は『街道をゆく』の『台湾紀行』を書くために生まれてきたのかな、と思ったりしています」と言っていた。
台湾の日本統治時代に育った人々の間で、「台湾紀行」はかつての祖国・日本が再び台湾に関心を寄せてくれたと大変な熱狂を呼び起こした。
李登輝前総統の曽文恵夫人は、司馬遼太郎が亡くなった時に、次の追悼の和歌を詠まれた。
もちろん日本語で。

 今もなお
 心にうかぶ台湾紀行
 夢と希望の国なれかしと

この「台湾紀行」に、ガイド役として登場するのが、蔡焜燦(さい・こんさん)氏である。
平成5年1月2日、取材のために台北を訪れた司馬を、蔡さんは日本陸軍の「歩兵操典」そのままの挙手の礼で出迎えた。
終戦時、蔡さんは奈良で陸軍航空整備学校に学んでいた。
その時の教官が司馬と同期に当たるため、「上官」として敬礼で迎えたのである。

司馬はすこしためらい勝ちに答礼したが、なかなか挙手の手を下ろさない。
蔡さんは直立不動のまま「司馬先生、そちらが上官だから先に下ろしてください」と言わねばならなかった。
以後、この敬礼は二人だけの挨拶として続けられた。
司馬と蔡さんは、かつて歴史を共有した同じ国民であったのだ。


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2.「日本人」として生きていく道
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明治28(1895)年5月、日清戦争の勝利により台湾が日本に割譲されると、日本軍は住民に2年間の国籍選択猶予期間を与え、清国を選ぶものは自由に大陸に引き揚げることを認めた。
蔡さんの父親はこの時、16歳。

一度は祖先の地・福建省に戻ったが、そこに住んでいた叔父は、中国社会の腐敗ぶりから、せっかく日本人になれる機会を掴んだ蔡さんの父親に、「お前はこんなところにいるような人間ではない」と帰還をすすめた。
蔡さんの父親はこうして「日本人」として生きていく道を選んだ。

蔡さんは昭和2(1927)年、台湾中部の清水に生まれた。

台湾総督府は教育の普及に力を入れており、蔡さんも台湾人児童のための清水公学校に入った。
ここでは鹿児島出身の河村秀徳校長が、地元の人々の寄付を集めて、16ミリ映画や校内有線放送による視聴覚授業など、当時の日本本土にもなかった先進的な教育を試みていた。

各校には教育熱心な日本人教師が配置されていた。

蔡さんの後輩に優秀だが貧しくて中等学校にいけない生徒がいたが、ある日本人の先生はその父親を訪ねて、「私が学校に行かせるから」と言って5年間の学費を肩代わりしてくれた。
日本人教師と台湾人生徒の間には強い師弟関係が生まれ、現在も日本から恩師がやってくると、台湾中から教え子が集まり、また自分の郷里に招こうと恩師の奪い合いになるほどである。

このような形で日本統治下での教育の普及が進み、昭和20年での就学率は92%に達していた。
ちなみに4百年間オランダの植民地だったインドネシアでは3%だった。


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3.大地震
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昭和10(1935)年、台湾中北部を大地震が襲った。
当時8歳だった蔡さんも、多くの家屋が倒壊し、行き場を失った被災者が恐怖にうち震える姿を見た。
この時に、昭和天皇から遣わされた入江相政侍従長が、被災地の民家を一軒づつ廻って、お見舞い金を下賜された。

蔡さんの実家が持っていた貸家のうち、全壊は10円、半壊は5円が下賜された。
蔡さんの父親は、被害にあった借家人たちに見舞金をそのまま与えた。
また軽傷を負った蔡さんの母も1円を頂戴したが、その1円札は丸い額に入れ、昭和20年まで壁にかけられていた。
少年だった蔡さんにも昭和天皇の国民への愛情が伝わり、皇室に対する親近感が心の中に芽生えた。


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4.立派に戦ってくる
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昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まる。
真珠湾でのアメリカ太平洋艦隊殲滅、マレー海戦でのイギリス東洋艦隊撃滅の報に台湾民衆も興奮し、内地同様に提灯行列で祝った。
14歳になっていた蔡さんも「いつの日にか戦の庭に馳せ参じたい」と心に誓った。

台中県には海軍の飛行場があり、蔡さんは塹壕堀りの動員作業に参加して、生まれてはじめて洋食をご馳走になった。
台湾人には軍人への道が閉ざされていたが、昭和17年、戦線の拡大と共に、門戸が開かれた。志願兵制度が発表されるや、千人の募集に40万人の志願者が殺到し、中には血書嘆願するものもいた。

蔡さんも遅れをとるまいと少年兵募集に応募し、昭和20年1月、少年航空兵として陸軍航空学校入学を許された。
日本への出発の前夜、蔡さんは友人にこう語った。
チャンコロといって俺をバカにする内地人は嫌いだ。
しかし俺は日本という国が好きだ。
天皇陛下が好きだ。
だから俺、立派に戦ってくる。

蔡さんの父親は、戦費捻出のために金製品の買い上げを呼びかける日本政府に協力して、家の金製品を残らず差し出そうとした。
金の指輪一つだけは残そうとした母親と口論していた父親の姿を、蔡さんは思い出す。「ああ、親父は、いい日本人になろうとしているのだ」と蔡さんは誇りに思った。


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5.内地にて
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蔡さんは奈良市高畑の、岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊(現在の奈良教育大学)に入校した。
そこでは台湾で経験したような差別はまったくなく、上官達からかわいがられた。
教科も飛行機整備などの専門分野よりも、数学などの一般教科に多くの時間が割かれた。

ここでは伝染病予防のために「ハエ取り競争」という競技があり、負けると夜間の不寝番という罰則が待っていたのだが、班長の安原万寿太(ますた)軍曹は、
「お前たちは、必死になってハエなど採らんでもいい。その分しっかり勉強せい。学生の本分は勉強だ。罰則の不寝番は俺がやってやるから心配するな」と言ってくれた。

そんな班長を不寝番に立たせては申し訳ないと、蔡さんの班は頑張って常に中隊一位の成績を収めた。

8月、敗戦。

ある中隊長から「君たちはまだすぐには台湾に帰れないだろうから、軍の払い下げの山で雑木を切って我々と一緒に炭を作ろうじゃないか」と誘われた。
こうして蔡さんは10数名の仲間と一緒に京都の美山町の山奥で炭焼きを始めた。
地元の人達が「兵隊さん、これをご飯の足しにしてください」と大豆や山菜、松茸、山芋などを差し入れてくれた。

12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられ、佐世保で船を待つ。
中華民国台湾青年隊」の腕章を与えられ、一躍戦勝国民にされたが、複雑な心境だった。
佐世保の復員事務局では「第○小隊第○班50名」と言えば、50名分の食事が用意された。
蔡さんたちはこの手で食料を余分に手に入れて「味噌焼きおむすび」を作り、佐世保や、遠く京都にまで戻って、飢えた戦災孤児たちに与えた。


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6.祖国への帰還
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昭和21(1946)年1月1日、接収された駆逐艦「夏月」で台北に到着。
しかし出迎えた軍楽隊に続く中華民国の兵士を見て、帰還の喜びは心の中で音をたてて崩れた。
ぼろぼろの綿入れ服に唐傘を背負い、わらじを履いている者、天秤棒の竹籠に鍋釜をのぞかせている者、全員が胸のポケットに歯ブラシをさし、醤油で煮詰めたような汚いタオルを腰にぶら下げている。
規律正しい日本陸軍とは似ても似つかぬ姿である。

「俺はこんな連中と一緒になるのはいやだ!」と、共に帰還した二人の戦友は、引き揚げる日本兵に紛れて、日本に戻ってしまった。
日本軍の制服のまま、日本語を話していれば、疑われることもなかったのである。


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7.金、金、金の世界
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中華民国政府による台湾統治が始まると、日本統治時代には考えられない不正と汚職がはびこり始めた。
大陸から派遣されてきた警察官は何の罪もない人々を微罪で捕まえては、保釈金を要求した。
蔡さんは従兄弟が校長を務める小学校の体育の教師となったのだが、ある日、用務員が警察の備品を便所に投げ入れた、という疑いで拘束された。

ゴム・ホースでさんざん殴りつけられた用務員は、自分がやったと自白させられた上で、蔡さんに命ぜられたと苦し紛れの証言をした。
出頭命令を受けて、蔡さんが交番に行くと、用務員はおどおどした上目遣いで「蔡先生、助けてください」と言う。
蔡さんが議論で警官を負かすと、怒った警官が拳を振り上げてきた。
ちょうどそこに校長がやってきて、警察局長と話をつけて、事なきを得た。

教員は業者からノートを安く仕入れては、生徒に定価で売りつけるようになり、少しでも裕福な生徒のいる学校に移って身入りを多くしたいと県の教育課や校長に賄賂をおくるようになった。

すべては金、金、金の世界になってしまった。


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8.2・28事件の惨劇
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昭和22(1947)年2月27日、台北の路上でタバコ売りをしていた老婆が、専売局の役人に暴行されたのがきっかけとなって、怒った民衆が立ち上がった。
翌28日、群衆が旧総督府前の広場に集まると、憲兵隊が機銃掃射を行い、十数名が死傷した。
各地で抗議行動が展開され、ラジオ放送局を占拠した民衆が、台湾全土に向けて非常事態を告げた。
2・28事件の始まりである。

ラジオからは日本語で「元○○飛行隊のものは○○に集結せよ」などと呼集がかかり、軍艦マーチや君が代行進曲が流された。
「基隆港に日本からの援軍が上陸したらしいぞ」という噂も流れた。

3月2日、蔡さんの町にも暴動が飛び火し、群衆が若い外省人警察局長宅に押し入った。
立派な革のトランクがこじ開けられると、中には札束がぎっしりと詰め込まれている。民衆はこの「汚れた金」を燃やしてしまった。

3月8、9日に大陸から送られてきた2個師団が上陸すると、報復が始まった。
中国兵はトラックに据え付けた機関銃を乱射しながら町の大通りを駆け抜け、無差別殺戮を行った。
さらに医師や教師、弁護士、学者などの知識層が次々と逮捕され、裁判もなく処刑されていった。

犠牲者は3万とも5万とも言われている。
蔡さんの知人で基隆警察局の用務員だった人も検挙され、手のひらに太い針金を通されて、9人一緒につながれ、銃で撃たれて、海に突き落とされた。
幸い列の一番端で銃弾が当たらず、手のひらの針金を抜いて、九死に一生を得た。

また当時17歳だった蔡さんの実弟は、北京からやってきた先生に言われる通り書いた一枚のメモがもとで、10年の懲役刑を科せられた。


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9.日本人よ胸を張りなさい!
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昭和43(1968)年10月、ジャパンラインという船会社の代理店の営業部長として、蔡さんは戦後初めて日本の土を踏む。
案内役の高島嘉道氏に頼んで、靖国神社に連れて行ってもらった。
かつて共に戦い、祖国に殉じた2百数十万の英霊に鎮魂の祈りを捧げたかった。
ここには台湾人戦没者2万7千余柱も祀られている。

その一人が李登輝氏の実兄で、海軍機関上等兵としてフィリッピンで戦死した李登欽氏(改姓名・岩里武則)である。
社に向かうと、高島氏が胸ポケットの定期入れから一枚の写真を取り出して、言った。
「蔡さん、これ・・・私の兄です。フィリピンで戦死しました。蔡さん、今日は本当にありがとうございます。」
「この時、高島氏と私の心が一つになった」と蔡さんは語っている。
戦後の価値観で、過去を批判する現代日本人に、蔡さんは次のように語りかけている。

日本統治時代、日本人教師達は、我々台湾人に「愛」をもって接してくれた。
そして「公」という観念を教えてくれたのだった。
愛された我々は、日本国家という「公」を愛し、隣人を愛したのである。

どうぞ心に留めていただきたい。
「日本」はあなた方現代日本人だけのものではない。我々「元日本人」のもので
もあることを。

台湾には、日本がいまこそ学ぶべき「正しい日本史」がある。
どうぞ台湾に正しい歴史を学び、自信と誇りを取り戻していただきたい。
そして誇りある日本が、アジア地域の安定と平和を担う真のリーダーたらんことを願う。

日本人よ胸を張りなさい!


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この稿は、伊能さんが平成13(2001)年5月に書かれたものです。
こうして真実の歴史が、人から人に、口から口に語り継がれる。
語る人がいるから、受け継がれていくのです。

ですから私たちは、沈黙してはいけないと思います。
いまこそ、ひとりひとりが、ひとりでも多くの人々に、日本の真実の姿とその素晴らしさを語りに語っていかなければならない。そう思います。

世界が、欧米列強によって支配者と奴隷に二分されていた時代に、日本は、世界はひとつの家族である、人類はみな平等であるとの精神(八紘一宇の精神)をもって、世界に飛躍しました。

世界が、被支配者に対してはモノとしての扱いと恐怖をもって臨んだのに対し、日本は共和と共生を目指し、むしろ日本本土以上にその国を素晴らしい国、理想の国家にしようとし、そのための努力を惜しみませんでした。

大戦となったときも、その先頭に立って戦ったのは、つねに日本人でした。
「つねに日本人だった」
・・・これってものすごいことだと思うのです。

世界中どこでも、他国を支配したら、その国の民を最前線に出して戦っていました。
なぜなら最前線は、もっとも死傷率が高いからです。
そこで支配者が死んでしまったら元も子もない。
だから、最前線は、常に支配される側の人々が並んだし、そういう人々がちゃんと戦うように、支配者たちは弾の飛んでこない後ろから、被支配者たちの背中に銃口を向けました。

実際、支那国民党が督戦隊を組織して、現地徴発の兵士たちを、後ろから銃で狙ったというのは有名な話だし、旧ソ連兵にしても、徴兵は、民間人に銃を向けての強制徴発でした。
誰より自国の軍隊を、ソ連兵は信頼していませんでした。
大陸では、軍とヤクザと暴徒は、同じものと人々は理解していたのです。

映画では米軍は、南方諸島や沖縄などでの日本との戦いに際して、白人の兵士たちが勇敢に銃をもってジャングルの中を行軍している姿が映し出されます。
白黒のフイルムにも、そういうシーンがたくさんあります。
けれど、不思議なことに、その白人兵たちは、みんな立って銃を構えています。
どういうことかというと、そこは弾の飛んでこないところだ、ということです。
白人兵の進む進路の前には、必ず黒人兵たちが先頭にいたのです。
そこが映画ではカットされている。

ところが、日本は違いました。
現地の人たちが、日本軍と一緒に戦うと申し出ても、戦えば全員玉砕するとわかっていても、日本人は、自分たちが正面に出て戦い、現地の人々に未来を残そうとしました。

日本が侵略した、日本が殖民地支配した、という人たちがいます。
けれど、その侵略され植民地支配された国の人たちは、日本人によって大戦中にいつ、最前線に立たされたのでしょうか。
さきほど書きました。「最前線は、もっとも死傷率が高い。そこで支配者が死んでしまったら元も子もない」のではないでしょうか。
その最前線には、いつも日本人兵がいて、「殖民地支配された、侵略された」と言っている国の人たちは、まるで前線に出ていないのです。
もちろんごく一部に例外はあります。
陸軍士官学校卒業生や、海軍兵学校卒業生、航空隊卒業生たちです。
けれど彼らは、自ら志願し、日本の国費で日本人と一緒に学んだ人たちです。

日本は、いちばん苦しいところ、いちばん辛いところは、日本人が行いました。
それが侵略であり、殖民地支配なのでしょうか。
もし人類史上にある侵略や殖民地支配がそういう温かなものであったのなら、いまごろ世界は被殖民地、被侵略血ばかりになっていることでしょう。

昨今のテレビドラマなどでは、戦前の日本といえば、常に、暗いイメージ、暗い湿ったシーンで描かれることが多いです。
けれど、あたりまえのことですが、戦前も戦後も、お天道さんの明るさは変わりません。
それどころか満点の星は、空気の澄んでいた昔の方が、あきらかにきれいでした。

よくよく考えてみれば、明治維新(1868)から終戦(1945)まで、わずか77年です。
その77年の間に、日本の人口は約3000万人から1億人に増加(日本人のみ)しています。

国家予算は、明治11(1878)年には、6094万円だった国家の歳費が、昭和19(1944)年には、862億円です。
わずか66年で1400倍の増加です。
成長率でいえば年平均11.6%です。
おそらく極貧状態だった明治初年まで計算にいれれば、その成長率は破格のものとなります。

経済も成長したし、人口も増えたのです。
そして多くの日本人が、海外での生活をはじめています。
そういう事実をひとつひとつ検証していくと、戦前は、現代日本より、はるかに国際的でしかも経済が成長し、人々の教養も高く、世界から尊敬される国であったということがわかります。

平成になってから、日本の経済はずっと停滞を続け、国内景気も悪くなる一方です。
教育は荒廃し、学生たちの教養レベルは地に落ちたとまでいわれている。
すべての解決の道は、ひとつ。
それは、日本人が日本を取り戻すことです。
たったそれだけのことで、日本は生まれ変わることができるのです。