① タガバワ族( Tagabawa )
アポ山の南側斜面から海岸まで
( 海岸の位置は ダリアオンからディゴスまで )
② クラタ族 ( Clata )
アポ山の北東斜面からダバオ川まで
( 海岸の位置は ダバオ市内からタロモまで )
③ オボ族 ( Ubo )
アポ山の北側一帯
( カリナンから北コタバト州マタラムまで )
日々の暮らし
わしらの生活は、アポ山周辺の決まっている土地内で移動を繰り返す、焼畑耕作。
主食は米、とうもろこし、芋類、副食は狩猟での採集だった。
多くて十数戸の家族集落単位を、酋長「ダト」が絶大な権威を持って監督した。
わしらは大木や巨大岩などの自然物に宿る精霊を信じ、天変地異などの自然現象を恐れた。
わしら男子は、人を殺すことによって一人前と見なされ、殺した人数によって名誉がランク付けされる、戦士社会の一員でもあった。
わしら以外の部族との戦争、誘拐、購入によって奴隷が存在した。
奴隷は、平時には特に差別すること無く生活をさせたが、時として、飢饉・天災・有力者の死亡時など、悪霊を鎮める最後の方法として人身供儀のいけにえの対象にした。
わしらの婚姻は、妻方居住婚で、結婚後に夫が妻の出生地で生活を営み、その土地の言語を習得した。
男が移動先で配偶者を見つければ、そのままそこに居着いた。
中には、各地に居住していた親族を訪ね、数ヶ月間、数年間、あるいは、死ぬまで訪問先に滞在する者もいた。
わしら老いれば、子供たちを訪ねて気ままに移り住む習慣があった。
わしらにとって、居住地の移動は、ごく自然な生活の一部であり、ダトにも個人の移住を制限する権限はない。
イスラム教徒との共存
その頃スペインはマルク諸島はじめ南方の島々との海外貿易航路の中継地をミンダナオ島に確保するため、ルソン・セブ島でキリスト教に改宗させた先住民を兵力として、ミンダナオ島のマギンダナオ支配地に繰り返し攻撃を行っていた。
マギンダナオ族が、スペインにより植民地化されたルソン島・ビサヤ諸島を襲撃する時は、マギンダナオ族だけではなく、スールー諸島・ボルネオ島・サンギヘ諸島・ミンダナオ島東部カラガのイスラム教徒と連合を組み襲いかかった。
キリスト教徒となった先住民を捕虜として連れ帰り、奴隷として使用した。
マギンダナオはスルタン クダラト(在位1616~1671)の時代に、ミンダナオ島を代表するマギンダナオ王国に発展し、ミンダナオの沿岸部各地にマギンダナオ族の拠点を造り、戦争時等必要に応じて納税と徴兵を課した。
わしらのタガバワ族は、海岸近くに住んでいたこともあって、マギンダナオ族とは、生活に必要な物を物々交換していたが、彼らの奴隷狩りを警戒しながらの交易であった。
マギンダナオ族はダバオ川・タグム川の河口付近に固まって定住していたが、時には、集団で川をさかのぼって来て、上流にいるわしら部族民を襲って来ることがあった。
わしらバゴボの交換品は、主に森で採れる樹脂と蜜蝋だった。
( 天然樹脂は、うるし・ニス・レジン・チクルの原料として、蜜蜂の巣である蜜蝋は、ローソクの原料としてヨーロッパ人が求めた物であった。)
スペイン人との共存
マギンダナオ王国第18代スルタン・ウントンは、1837年 スペインとの友好協定を締結し、事実上スペインの保護下に入り、1845年には、ミンダナオの支配権を放棄させられた。
わしらバゴボは一箇所に定住することなく、焼畑をしながら移動する生活ゆえマギンダナオ族にも支配されずに暮してきたが、スペイン人はダバオ定住のマギンダナオをはじめとするイスラム教徒を武力で服従させ、キリスト教への改宗活動を始めた。
わしら長いこと、イスラムを受け入れなくとも、生活が成り立って来た。
キリスト教は、奴隷と人身供儀を許さないと云う、これは受け入れられない。
スペイン人はダバオ湾沿岸部にいくつも教会を造って布教活動をしていたが、
わしらの生活に変わりは無かった。
アメリカ人との共存 に続く