danceintent’s blog

定年後 元気なうちに海外生活

ミンダナオ島先住民族 バゴボ族 回想(日本人との共存)

日本人との共存
 
国際社会は、植民地支配を是認する欧米中心の帝国主義の嵐が吹き荒れていた。日本も明治維新以来、列強に支配されない国の形成が、国を挙げての目標であった。
富国強兵という名の社会変動による人口過剰は、必然的に海外への植民・経済進出に向けられた。
農家の次男、三男以下は故郷では仕事はなく、都会でも不景気で仕事がない。仕事が見つかるまで、親元に居候し肩身の狭い思いをすることを潔しとしない若者や、居候したくともできない若者が、生活の糧を求め、海外へ出て行った。
 
1903年(明治36年)ダバオの最初の日本人移民は、白人の麻農園労働者の募集に応じ、鹿児島県人 須田良輔に引率された30人だった。
アメリカ人をはじめとする白人が経営する麻農園に賃金労働者として雇われた。
 
わしらバゴボ族は、時間に縛られる農園労働には馴染めず、もらった賃金もわしらにすればたいそうな額だったが、うまい食べ物や、欲しい物を買い、気が付いた時は、もう金は消えていた。
 
仕事の内容は、熟練を要する麻挽きや除草等多種にわたったが、熱帯気候のもと、麻の手挽きは慣れない日本人には辛かったろう。わしらにとっては充分な食事も、彼らの口には合わなかったことだろう。
1年の契約期間が終わると、全員マニラへ戻って行った。
 
 
1904年 バギオのベンゲット道路建設御用商人であった、太田商店主 太田恭三郎が 工事に従事していた日本人180人を連れて来た。
日本に帰っても仕事がないからか、辛抱強くわしらと同じ肉体労働をしておった。
しかし、彼らにとっては不便なダバオの土地に定住するつもりはなく、稼いだら帰る、海外出稼ぎ労働者であった。
 
ベンゲット道路工事が終わって1906年 工事現場監督だった大城孝蔵が、太田恭三郎と共に、工事に従事していた沖縄人100名余を含む170余名を率いてダバオ入りした。
 
 
大城は、わしら山岳少数民族の事を事前に学んで、入って来た。
わしらの有力ダトと直接話をつけて土地租借権を獲得した。
わしらにとって、彼をはじめとする沖縄人は、他の日本人と何かが違った。
日本人が不安いっぱいの不便な生活を強いられていたなか、好物の豚肉を食べ、蛇皮線を弾き、楽しげに踊り唄える沖縄人がいた。
1対1で向かい合う、しばし見つめ合う、言葉はなくとも、感じる、何かがあった。
大城は、この地に生涯とどまった。ミンタルの隣村バゴは、大城の名を取り
バゴオオシロとなり現在にいたっている。
 
1907年 太田興業株式会社 設立
1912年 太田興業 ミンタル・バゴ地区に1000ヘクタールの土地を米当局から購入
1914年 古川拓産株式会社 ダリアオンに設立
1914-1918年 第一次世界大戦 
 
列強の軍備拡張につれマニラ麻が急騰すると、金儲けに奔走する日本本土からの移民と、戦争景気による日本国内余剰資本が、大量にダバオに入って来た。
 
それからだ、日本人がわしらの土地深く入って来たのは。
従来、白人プランターは海岸近くの土地で農園経営をし、内陸部のわしらの森には入ってこなかった。
 
イメージ 1
ガジュマル・バニヤン・Balate
日本人は、精霊の宿るガジュマルの大木や、土地境界の目印でもあり大切な収入源でもあるランソネスの果樹を、勝手に次々と切り倒していった。
天に向かって聳えるラワンやアカシアの大木をはじめ、全ての木々は切り倒され、森は裸にされた。
獲物はいなくなり、川も干上がるか汚染され以前のようには魚も採れなくなった。
 
わしらバゴボ人の居住地域は、はっきりした境界があり、ダト等を案内人とする者以外の、見知らぬ者の侵入は断固として拒んできた。
 
わしらの土地に侵入し、生活の場である森を破壊する者を、見過ごす訳にはいかなかった。
そんなわしらの習慣を、理解できぬ日本人が、ラワンの大木を切りに来る。
 
侵入者の背後に忍び寄り、首を切る。いったい何百人の日本人を殺したろうか。
殺されても、殺されても、丸腰で侵入してくる日本人が、後を絶たなかった。
森が破壊され、精霊の怒りに触れて現われた、天然痘、インフルエンザなどの疫病の蔓延を鎮めるため、生け捕りにした日本人を生贄としたこともあった。
 
1919年 わしらから、銃・ボロ(刀)・槍などの武器を取り上げる刀狩が強制された。 この年の新公有地法により、外国人は公有地を購入・租借できなくなった。
 
そして、わしらと日本人との関係が変わった。
毎年、毎年、仲間を殺されているというのに、日本人は、わしらに報復をしなかった。
それどころか、わしらバゴボ人の名義で公有地を申請し、自ら土地を管理し、わしら地主に収穫高の10%から20%の小作料を支払うという。
日本人の考えていることが解らないまま、地主となったバゴボ人は生活が一変した。
 
日本人は、わしらの「 小作人=土地管理者 」となることによってアバカ耕作面積を拡張していった。
 
作物の育成方法等生活に役立つ知識や勤勉さで、ダトに見込まれ、娘を嫁にもらい、バゴボの家族と交流する日本人も出てきた。
 
自営農場を始めるのに好都合となったバゴボ娘との結婚が増えた。
日本人に嫁いだとなると、娘の親族は、食いっぱぐれが無くなった。
婚姻は、わしらにとっても、日本人にとっても都合が良かった。
 
日本人を小作人や親族としたバゴボ人と、他のバゴボ人とに差が現れていった。
 
日本人は、農園主にしろ、商店主にしろ、わしらと現金ではなく、つけで商売をしていた。几帳面にノートに詳細を記録していた。
わしら面倒な金勘定は、全面的に日本人に任せるような生活になっていた。
 
日本人が経営するアバカ農園に臨時労働者として雇われていたバゴボ人が、農閑期になって、明日から休んでくれと言われて、なたを手に騒いだことがあった。
その後、詫びを入れて又雇ってもらおうと日本人を訪ねると、おまえは怖いから雇えないと言われた。日本人と縁が切れると困ったことになるのだが。
 
わしらの生活は、森林が失われたことにより、従来の焼畑農耕はできず、かといって、定着農耕は灌漑・肥料・機械化・病虫害対策など多くの資本と技術が必要で、これもできない。
日本人をまねしてアバカを栽培・販売しようにも、効率的な栽培技術も市場動向もわからず、日本人が作り上げたアバカの生産・販売・流通の一括システムには、入り込む隙もない。と、わしらだけでは立ち行かなくなっていた。
 
日本人が敗戦後、わしらの土地からいなくなった後も、わしら自主性は回復できず、マニラからの指示を仰ぐ行政機構の末端組織であるバランガイのキャプテン(酋長)になれる者は、ほとんどいなかった。
 
 
参考文献:早瀬晋三「海域イスラーム社会の歴史」岩波書店 2003年
 
東京財団研究報告書  
フィリピン日系人の法的・社会的地位向上に向けた政策のあり方に関する研究
2005年6月 編著者: 河合 弘之
 
大野俊 「ダバオ国」の沖縄人社会再考
- 本土日本人,フィリピン人との関係を中心に - 2006年3月
 
中外商業新報 マニラ麻の巻  1938.5.12-1938.5.25 
 2005.3 神戸大学附属図書館