アメリカ人との共存
また米西戦争中の1898年8月にはハワイを併合している。
わしらが土地ダバオにも、スペインに替わってアメリカが、条約締結から
1年後の1899年12月 James L. Burchfield 大尉が中隊を率いて上陸した。
バーチフィールド大尉は、ダバオの肥沃な大地を目にし、退役を待つことなく、
110ヘクタールの土地を購入してプランテーション経営に乗り出した。
その後、Edward C. Bolton 大尉が初代ダバオ地域知事となる。
( ダバオ市内の通りと橋に、彼の名前が付いている )
この民族区設立の直接の目的は、税の取立てであった。
税を払わない者には、強制労働を課する条例が制定された。
納税も強制労働も何のことか解らないまま捕まえられた、わしらの仲間は、留置所では、ずいぶん暴れもした。
農園労働者を確保するために、わしら山岳民族を海岸に近い集落に集住させ、キリスト教への改宗、学校教育の普及を通して「文明化」させる政策を執った。
言い換えれば、わしらの伝統的価値観を捨てさせ、わしら住民を資本主義経済下で低賃金労働者として確保することが、文明化だった。
ボルトン知事が、ディゴスの遥か南 マリタで、タガカオロ民族小民族副代表ムンガラヨンと彼の兄弟によって射殺される事件が起こった。
ダバオの小民族区の区長は、ほとんどがアメリカ人をはじめとする外国人農園主だった。
1906年6月5日、ボルトン知事は、それまで何度も足を運んだことがある副区長ムンガラヨンの家での夕食会に招待され、マリタにある政府農場の退役軍人の労働監督と共に出向き、その夜はムンガラヨンの家に泊まった。
翌朝、ムンガラヨンと彼の二人の兄弟にエスコートされ、マリタへ帰る途中の海岸で、いつものように丸腰だった二人は、不意に撃たれ殺された。
犯行後のムンガラヨン兄弟は、アメリカ軍・警察隊の徹底的な地元地域探索にもかかわらず、見つからなかった。
これ以降、アメリカ人による直接のアバカ農園開発は発展して行かなかった。
わしらダバオ近郊のバゴボ族に対しては、学校教育とキリスト教の普及に力を入れておった。
伝道団体は英語による学校教育を助けるという合体システムだった。
わしら最初の頃、アメリカ人は、子供たちを学校に集めて、子供を食べるアラガシという化け物に売り渡すのだと信じておったし、女を学校に通わすと、私生児を産むとも信じておった。
学校の先生の指導で、長い髪を切った息子の姿を見た父親は、もはや部族の男子の威厳がなくなり、結婚相手もいないと嘆いた。
自給自足と物々交換で暮していたわしら、親たちは現金収入を求めて、森で採った作物を町に売りに行き、時にアバカ農園で働く、子供らは学校で近代文明に接する、という生活に変わっていった。
わしら心のより所が、無くなってしまった。
アメリカ式の行政体系、法体系が、ダトの自尊心・社会的規範を奪った。
殺人の風習の禁止は、戦士社会の男の威厳を損ない、戦士の階級自体が存在しなくなった。
人見供儀の風習の禁止は、ダトの指導力、戦士の武勇を示す機会を奪い、いけにえの対象となった奴隷階級の存在の意味をなくした。
The NewYork Times Published: June 15, 1906
日本人との共存 に続く