danceintent’s blog

定年後 元気なうちに海外生活

ミンダナオ島先住民族 バゴボ族 回想(アメリカ人との共存)

アメリカ人との共存
 
アメリカは、南北戦争30年でイギリスを抜き世界一の工業国となっていた。
1898年2月、キューバハバナ港内でアメリカ軍艦の爆沈事件(原因は不明)が起こると、アメリカはスペインに宣戦を布告し
米西戦争アメリカ・スペイン戦争 1898.4~98.12 )が始まった。
 
戦闘は4ヶ月で終わり、アメリカは一方的な勝利をおさめ、この間キューバフィリピン諸島プエルトリコを占領した。
 
1898年12月パリで講和が成立し、キューバの独立(事実上保護国)とフィリピン諸島・グァム・プエルトリコアメリカへの割譲が決まった。
また米西戦争中の1898年8月にはハワイを併合している。
 
わしらが土地ダバオにも、スペインに替わってアメリカが、条約締結から
1年後の189912月 James L. Burchfield 大尉が中隊を率いて上陸した。
ミンダナオ島アメリカの直接の軍政下におかれた。
 
バーチフィールド大尉は、ダバオの肥沃な大地を目にし、退役を待つことなく、
110ヘクタールの土地を購入してプランテーション経営に乗り出した。
その後、Edward C. Bolton 大尉が初代ダバオ地域知事となる。
( ダバオ市内の通りと橋に、彼の名前が付いている ) 
 
わしらは、アメリ支配下では、行政に参加する道は閉ざされ、固有の文化・社会的慣習は、否定あるいは無視された。
今までは、ダトを中心とした部族の自治が認められていたが、それもアメリ支配下での民族区制度により失った。
 
わしら部族は、部族ごとに民族区の下に組織され、区長、副区長が選ばれ、直接、郡知事の支配下に置かれた。郡知事と区長はアメリカ人、副区長がダト。
この民族区設立の直接の目的は、税の取立てであった。
税を払わない者には、強制労働を課する条例が制定された。
 
納税も強制労働も何のことか解らないまま捕まえられた、わしらの仲間は、留置所では、ずいぶん暴れもした。
町で生活している者は、イスラム教徒であれ先住民族であれ、マニラでキリスト教徒が決定した、法律に従った生活を強いられることとなった。
 
ダバオでのアバカ栽培が儲かると注目されはじめ、アメリカ人プランターの数がしだいに増えていった。
当時ダバオの農園労働者は、主に農園周辺から集められた小数民族とイスラム教徒、フィリピン北部からのキリスト教徒移民や日本からの移民であった。
 
農園労働者を確保するために、わしら山岳民族を海岸に近い集落に集住させ、キリスト教への改宗、学校教育の普及を通して「文明化」させる政策を執った。
言い換えれば、わしらの伝統的価値観を捨てさせ、わしら住民を資本主義経済下で低賃金労働者として確保することが、文明化だった。
 
ボルトン知事が、ディゴスの遥か南 マリタで、タガカオロ民族小民族副代表ムンガラヨンと彼の兄弟によって射殺される事件が起こった。
 
当時ボルトン知事は、アメリカ人農園主の多かった、ディゴス以南地区の先住民族の、部族間の争い・怨恨等一切合財解決させようと、精力的に先住民族に接し、代表を集め何度も集会を開いていた。
 
一方のムンガラヨンは、ディゴス以南地区に住んでいるタガカオロ民族区の副リーダーで、アメリカ人を攻撃して自分達の土地から追い出し、イスラム独立王国の復権を、密かに仲間と画策していた。
 
ダバオの小民族区の区長は、ほとんどがアメリカ人をはじめとする外国人農園主だった。
彼ら農園主は、区長の職権を用い、農園の労働力確保、経営のために、農園労働者として、酋長(ダト)・一般先住民族イスラム教徒・キリスト教徒・日本人を区別すること無く低賃金で働かせた。
 
190665日、ボルトン知事は、それまで何度も足を運んだことがある副区長ムンガラヨンの家での夕食会に招待され、マリタにある政府農場の退役軍人の労働監督と共に出向き、その夜はムンガラヨンの家に泊まった。
翌朝、ムンガラヨンと彼の二人の兄弟にエスコートされ、マリタへ帰る途中の海岸で、いつものように丸腰だった二人は、不意に撃たれ殺された。
 
犯行後のムンガラヨン兄弟は、アメリカ軍・警察隊の徹底的な地元地域探索にもかかわらず、見つからなかった。
アメリカ軍・警察隊による、デイゴス以南地区マララグでの虐殺等の報復は、イスラム小民族地域の治安回復措置として、それから3ヶ月におよんだ。
 
これ以降、アメリカ人による直接のアバカ農園開発は発展して行かなかった。
 
わしらダバオ近郊のバゴボ族に対しては、学校教育とキリスト教の普及に力を入れておった。
英語による学校教育は、アメリカ人のプロテスタントの宣教活動を助け、
伝道団体は英語による学校教育を助けるという合体システムだった。
 
わしら最初の頃、アメリカ人は、子供たちを学校に集めて、子供を食べるアラガシという化け物に売り渡すのだと信じておったし、女を学校に通わすと、私生児を産むとも信じておった。
 
ダバオでコレラが流行った時、アメリカ人が池や川に毒をまいて、魚がたくさん死んだ。それを遠くで見ていたわしらは、毒殺されると思い逃げたもんだ。
 
学校の先生の指導で、長い髪を切った息子の姿を見た父親は、もはや部族の男子の威厳がなくなり、結婚相手もいないと嘆いた。
学校教育はすべて英語で、アメリカから輸入した教科書を使い、アメリカのカリキュラムに従い徹底的なアメリカ化が行われた。
 
自給自足と物々交換で暮していたわしら、親たちは現金収入を求めて、森で採った作物を町に売りに行き、時にアバカ農園で働く、子供らは学校で近代文明に接する、という生活に変わっていった。
 
わしら心のより所が、無くなってしまった。
アメリカ式の行政体系、法体系が、ダトの自尊心・社会的規範を奪った。
殺人の風習の禁止は、戦士社会の男の威厳を損ない、戦士の階級自体が存在しなくなった。
人見供儀の風習の禁止は、ダトの指導力、戦士の武勇を示す機会を奪い、いけにえの対象となった奴隷階級の存在の意味をなくした。
 
 
 
参考文献:早瀬晋三「海域イスラーム社会の歴史」岩波書店 2003年
The NewYork Times Published: June 15, 1906
 
日本人との共存 に続く