ミンタルへ行って見た。
戦前には ダバオで最も整然とした日本人住宅街があった場所だ。
これは 日本家屋らしいけど
車で出かけようとしていた 住人に尋ねる
「 この家 古いですね 70年 は 経っているでしょう 」
「 いいえ もっと前ですよ 」
「 はああ そうすると 日本人が建てたものですね 」
「 そうよ 向かいの私の家もそうです 」
「 あなたと一緒に あなたの家撮っていいですか 」
「 あなた 私を撮って どうしようっていうのよ 」
「 あのー 家が良く見えないんですが 門開けてもらっていいですか 」
「 元は板壁だったのを 石に変えたのよ 」
「 日本人墓地が、川2本越えた場所に、歩いても行ける距離にあるから、行くと良いわよ 道は途中で聞けばいいから それと日本の建物なら
Bago Oshiro 地区にも、いくつもあるから これはトライシクルで行くと良いわよ 」
トライシクルドライバーに見せるようにと 地名を書いてくれた。
( これから遥か、ジェンサンまで行くというのに、手間を取らせてすみません
仰せの通りに 尋ねて行きますから はい )
日本がそのまま ここにある
この先が 体育館(Gymnasium)
表 サリサリストアー 裏 ヒュッテ山小屋風
彼女に言われた道 広場を抜けて バランガイ出張所が目にとまった
日本人墓地への道を聞こうと 中に居た中年女性に尋ねると
「 バランガイキャプテンの家がそこだから 一緒に来なさい聞いてあげるから 」
後ろに付いて向かいの家に 家にはキャプテンの妹さんが居て 紹介された
妹さん キャプテンを携帯で呼んでいる。
( なにか おおごとになってきたなあ 手間をかけさせて もうしわけないです )
5分もしないで、ミンタルバランガイキャプテンが車で来てくれた 希望する場所へ連れて行ってあげると言う。
お言葉に甘えて
手書地図に載っている 邦人墓地 日本人小学校 ミンタル病院 アカシア広場 を案内してもらうことになった。
ミンタルは当時 ドリームシティと呼ばれ、日本人あるいは日系人しか家を建て住むことが許されなかったそうだ。
街並みが整然と区画整備され 田園調布か軽井沢といった風情が 今でも残る
水力発電により、暗闇の丘陵地帯に、この一画が 電灯の明かりが点々と燈る光景が 目に浮かぶ。
ミンタル日本人小学校の 隣にあった ゴルフリング(6ホール)跡
キャプテン車ごと入って来ちゃった
ドリームシティ内に戦後建てられた ミンタルバランガイオフィスに案内された
額に入れて壁に飾ってあった 手書地図1枚を 90度回転させて もう1枚と並べた
ミンタルはミンタルでも 別の場所を書いた地図だと思っていた 2枚が ピタッと結合した
これでグーグル衛星写真と照合することができた
アカシア広場のあった場所は グーグル地図上 Gymnasium が建っている
手書地図上の商店街は
Gymnasium の道路挟んだ向かい
邦人墓地内を一通り案内してもらった
最後に ミンタル病院の医師の墓です と案内された
日本軍にスパイ容疑で殺された病院医師の墓ですかと聞くと
それはこちらです と別の場所に案内された
トレジャーハンターに荒らされたまま
胸が詰って声が出なかった
グーグル地図上
Mintal Public Market に 嘗て建っていた ミンタル病院の土台
病院入り口の階段
日本軍が敗走前 どこかに隠したとされる 金塊目当ての トレジャーハンターに階段までも掘り返され 朽ちていた
病院内地下水汲み上げ用ポンプの一部が 家の中で鎮座
「 人の家に入ってまで 写真撮った日本人 いないでしょう 」
「 いえいえ 先月 元住人がブラジルから来て 撮って帰りました 」
「 これから人に会うので 替わりに誰かに案内させます 」
「 一通り見せていただいたので あとは 一人で反芻します 」と丁重にことわった
昼食後 トライシクルで バコ オオシロ 地区へ向かった
草原地帯に 広い敷地の別荘というのがピッタリの 大きな家々が点在している
家も倒れた木も そのまんま 住んでいる 人が玄関からこちらを見ている
こんな大きな家 いったい何人で住んでいるんだろう
乗用車付なら 家の維持もそれ相応に